日本の自慢

 さて昨日は実家のF1をガサ入れじゃなかったガサゴソ、デカール貼って、線を引いての「手が震える」私。そしてベルリン・フィルの「ジルベスター・コンサート」同様、全世界に中継されるウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート」(Das Neuejahrsconzert(ドイツ語))を見ようとしていたものの、チャンネル争いに敗れた今日は木曜日、残り2つのうちの『巨大建造物』のお話。厳密には建造物とはいえませんが、今年、2014年で開業50年の日本が誇るこんな鉄道のお話です。
(これ、アンタが「クラシック音楽」とか言うても、全然イメージが合わへんのよ、ミーシャ。)

b0010921_083445.jpg

 1964年(昭和39年)10月1日、東京~新大阪間で1本の列車が開通しました。(この時に新大阪駅は周辺の泥湿地を埋め立てて、建設されました。現在では「新」の字のつく駅は最北は「新青森」(青森県)、最南は「新水俣」(熊本県)まで全国に16あります。なお、2015年に1つ(「新高岡」(富山県)増える予定です。)元々戦前、鉄道省内部に「鉄道幹線調査会」が設立され、主要幹線の輸送力強化についての検討が行われていました。ここから抜本的な輸送力増強手段として1939年(昭和14年)に発案されたのが「弾丸列車計画」でした。これは、東京から下関まで在来の東海道・山陽本線とは別に広軌(1435mm・標準軌、JRの在来線は1067mmです。)の新路線を建設し、最高速度200km/hと満鉄「あじあ」号を超える高速運転を行い、東京 - 大阪間を4時間、東京 - 下関間を9時間で結ぶことを計画したものでした。この計画は翌1940年(昭和15年)9月に承認され、建設工事が始められることになりました。1941年12月の太平洋戦争勃発後も工事は続けられ、日本坂トンネルや新丹那トンネルが、1942年には東山トンネルの工事が着工したものの、最終的には戦況の悪化で中断されました。しかし、そのルートの相当部分が後の東海道新幹線建設で役立てられました。特に、土地買収が戦時中の時点で半ば強制的な形で相当な区間において終わっていたことは、新幹線建設をスムーズにしました。

 戦後の混乱の中、国鉄は旧日本軍の研究部門や軍需企業に所属し、戦後その職を失ったり技術を持て余していた優秀な人材を多数得ていました。高速走行中の車両の振動や、空力特性の研究は、この旧軍出身技術者の存在によって大きく進展しました。そこで登場したのが「動力分散方式」(電車方式)、地盤が悪く山がちな日本において列車を高速運転するには、機関車が客車を牽引する「動力集中方式」(機関車方式)よりも、電車・気動車のように編成の各車両に動力を持たせる「動力分散方式」の方が適しています。カーブや勾配の多い条件でも加減速能力に優れ、また線路への負担が小さいため、脆弱な地盤に敷かれた線路でも高速を出せるからです。(なお、この「機関車方式」は3大高速鉄道の残り2つ、TGV、ICEに採用されています。この2つは先頭車両はモーターとバッテリーの塊です。)

 「時代遅れ」と採算性を危ぶむ声もあった中、1959年(昭和34年)に起工され、1961年(昭和36年)に国鉄はこのプロジェクトに対し、世界銀行から8000万ドル(日本円に直して288億円。当時は1ドル=360円の固定相場制でしたが、この金額は当時の日本の国家予算の1.5%分にあたります。現在の貨幣価値に直して約1500億円前後)の融資を受けました。(この融資は1981年(昭和56年)に返済が完了しています。)この融資を受けたことで、新幹線プロジェクトは日本の国家的プロジェクトとなり、国内事情によって中断することは許されなくなりました。ただ、国会議員の陳情その他で路線に影響が出た部分もあり、以後、この新幹線は政治の中で「道具」になることもありました。

 1970年(昭和45年)、大阪万博の際に12両から16両編成になった新幹線は、1967年(昭和42年)、新大阪以西の延伸が始まり、1972年(昭和47年)には岡山まで、そして1975年(昭和50年)には福岡まで延びました。さらに、1971年(昭和46年)、東北、上越新幹線が起工され(最終の盛岡(岩手県)と新潟はそれぞれ鈴木善幸、田中角栄の地元です。)、当時の首相、田中角栄の「日本列島改造論」に乗って順調に進むかといわれていましたが、1982年(昭和57年)に暫定的な形で開業したものの、国鉄の財政は悪化し、1987年(昭和62年)、分割、民営化に至りました。国鉄末期に建設が凍結されていた整備新幹線は工事が再開され、東北新幹線(盛岡 - 八戸・2002年、八戸 - 新青森・2010年)・九州新幹線鹿児島ルート(新八代 - 鹿児島中央・2004年、博多 - 新八代・2011年)が全線開業、北陸新幹線(長野まで・1997年)が部分開業し、残った区間(長野~糸魚川~金沢~福井、2015年?)や未開業の北海道新幹線(新青森~札幌、2016年?)なども工事が次第に進みつつあります。

 そしてその新幹線が誇るのが「驚異的な安全性」、「安全神話」とまで言われたほどです。開業して以来、50年近くの長期にわたって列車に乗車中の乗客が死亡する事故は発生させていません。あのペースで動かしてその状態というのは驚異ですが、旅客が死亡する事故も1995年(平成7年)に駆け込み乗車の乗客の手をドアに挟んで引きずり死亡させた三島駅乗客転落事故の1件、1人だけです。投身自殺による死亡例は多数発生しているものの、鉄道事業者側の責任事故ではなく、またこれらは新幹線システムそのものの根本的欠陥に起因する事故ではないため、新幹線の安全性に関しては非常に高いものと捉えられています。これは新幹線の安全を確保するシステムが的確に運用され、恒常的に維持されてきていることの証明であり、日本の鉄道技術の水準を端的に示す要素であるとも言えます。またほとんどの路線が在来線から隔離されているというのも理由かと思います。この事実は新幹線の安全神話などと称されています。しかし死者こそ生じなかったものの、重大な事故に至る一歩手前の事態は過去に何度か発生しています。(トップハム・ハット卿に聞かせてやらんといかんような気もします。何のことかわかった方は後でコーヒーでも。)例えば…。

(1)コンクリ片、あわや直撃?(1999年(平成11年))
山陽新幹線福岡トンネルにおいて、通過中の列車に対しコンクリート片が落下し屋根が破損した事故。コンクリートの老朽化が問題になりました。
(2)地震による例(1995年(平成7年)、2004年(平成16年))
1995年、阪神・淡路大震災の際高架橋が一部、崩れたために新大阪~姫路間で2カ月以上不通になった例、起きたのは営業開始前の午前6時前だったために落下した高架橋に列車が突っ込むなどの最悪の事態は免れました。これを機に高架橋の補強などの耐震対策が進められました。2004年には長岡駅の手前付近を約200km/hで走行中に脱線しました。これはまた新幹線史上初の営業運転中、しかも高速走行中の脱線事故となりました。この脱線の衝撃で、レールの道床の締定が多数外れ、一部のレールはねじ曲がるなどの大きな被害を受けました。通常、列車がこの規模の地震に震源地付近で直撃された場合、たとえ停車していたとしても脱線は免れ得ないと考えられるのですが、この事例では約200km/hで脱線したとはいえ、奇跡的に、死者・重傷者などは生じませんでした。これは、編成全体の横転などには至らなかったこと、および、数分の差で対向列車との衝突も免れるという幸運も重なったことによるものと考えられています。

 また飛行機、船とは違い、乗客は名前を登録する必要がないため、事故の際の身元特定に支障をきたすのではないか?という指摘があります。また「手荷物のX線検査」などはなく、その気になれば爆発物その他を車内、ホームに持ち込むことは簡単でして、また高架橋その他には周囲から簡単に近づけるという(これはほかの鉄道にも言えます。「撮り鉄」のあなたなんて国外ではヘタしたら「スパイ容疑」がかかる可能性があります。)、保安上の問題もあります。しかし線路内への立ち入りその他は「新幹線特例法」という法律により、厳しく規制されています。

 ということで長くなりましたが、今日のお話はここまで。帰省その他で利用する方も多いかと思いますが、その裏ではこんなことがありますよということで、お後もよろしいようで…。
(これ、ミーシャ。ま~た、長いだけの文章書いてる、しまいに怒られるよ、まったくもう!)

 
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ミーシャ

Author:ミーシャ
FC2ブログへようこそ!

コアラの時計

by Animal Web Clock
FC2カウンター
現在の閲覧者数:
FC2カウンター
最新記事
最新トラックバック
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
RSSリンクの表示
リンク
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
検索フォーム