龍の城

 さて最近、ちと起きるのが遅くなったような気もする私。今日は水曜日、巨大建造物のお話。番外ということで、一時ブームになった「城ガール」からこんなお城のお話です。
(ほいで、今日は何やの、ミーシャ?)

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 日本の城と言えば、名城その他は数ありますが、今回は中国、明清時代の北京の宮城である「紫禁城」です。紫禁とは、天帝の宮城とみなされていた星座の紫微垣(しびえん)から出た語で、皇帝の居所を意味します。初め明の永楽帝(えいらくてい)が国都を南京(ナンキン)から北京に移すに際し、元の大都の宮城の跡地を利用して造営し、十数年を費やして1420年に完成した。その後、明・清時代を通じて宮殿や門はたびたび改築修補され、それらの名称も変更されています。現在の建物は、ほとんどが明代の様式をだいたい継承して清代に建てられたものです。

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 紫禁城は北京の旧内城の中央南部よりに位置する東西約750メートル、南北約960メートルの城壁に囲まれた約72万平方メートルの一区画で、その外側に堀を巡らしています。城壁の四周にそれぞれ一門があり、南の午門(ごもん)が正門としてとくに雄大で、北に神武門、東に東華門、西に西華門が開き、四隅に角楼(かくろう)がある。城内は南と北の2区に大別され、南は公的な場所の外朝で、午門から北へ太和門、太和殿、中和殿、保和殿が中軸線上に一列に並び、その東西に文華殿、武英殿などの殿閣が配置されています。なかでも中和殿、保和殿とともに3層の白色大理石の基壇上に建つ太和殿は東西約60メートル、南北約33メートルの堂々たる建物で、紫禁城の正殿として重要な儀式に使用された。外朝の北は皇帝の私的生活の場所の内廷で、保和殿の北の乾清(けんせい)門から乾清宮(この中には件の「正大光明」の額があります。)、交泰殿、坤寧(こんねい)宮などが中軸線上に一列に並び、その左右に后妃らの住む東西の六宮をはじめ多くの建物があります。(西太后の時代、西太后は西六宮の1つ、「儲秀宮」に、東太后は東六宮の1つ、「鍾粋宮」に住んでいました。)このように紫禁城には大小無数の建物と牆壁(しょうへき)や門が整然と配置され、黄色い瑠璃瓦や朱塗りの柱と相まって集団美をなしています。そしてこの豪華な大宮殿は、明・清時代の皇帝権力の強大さをよく表すものである。1925年以来、故宮(こきゅう)博物院として一般に公開され、中国文化財の一大殿堂となっています。

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 そしてその西側には「中南海」と言われる地域があります。私が会ってみたい人物の2人目、鄧小平もかつてはここに住んでいました。1905年四川省に生まれた後、フランスに留学、1922年共産党に入党し、活動するものの、、1927年、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従うが故に失脚します。(1度目の失脚)、1935年、公職に復帰した後は、その後の国共内戦、反右派闘争を戦い、共産党総書記にまで出世します。

 しかし1966年、毛沢東のやった「大躍進政策」が失敗に終わると、その後始末において資本主義的な政策(有名な『白猫黒猫論』はこの時に登場しました。)をとったために、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えました。その結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになります。(2度目の失脚)

 1968年、江西省南昌に追放されたものの、1971年の「林彪墜落死事件」がその運命を変えることになります。1973年、周恩来の復活工作が功を奏し、鄧小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手します。1975年、周恩来の病気が重くなると、党と政府の日常業務を主宰するようになりますが、翌年、周恩来が逝去の後、鄧小平の運命は暗転します。同年4月、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した「第一次天安門事件」において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪されました。(3度目の失脚)しかし、同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に三度目の復活を果たします。

 その後は「実事求是」論で党内抗争を勝ち抜き、その結果生まれたのが「改革、開放路線」です。この路線は1人の独裁から集団指導体制に変えたという点が大きく、その後の経済の発展は皆さんもご存じのとおりです。ただ、体制を維持し続けたが故に、毛沢東の呪縛を断ち切ることに妥協してしまった感は否めず、そこがこの人の限界だったとも言われてます。

 その後は1992年に、有名な『南巡講話』で改革、開放路線を推し進め、1984年にイギリスとの間で結んだ「香港返還」を1997年に控えた、1997年2月、パーキンソン病のために亡くなりました。また、この方の時代まではほとんどの政治家は中山服を着ていましたが、この後は全て背広になりました。

 ということで今日のお話はここまで。最近どうもダラダラと書いているような気がしまして…。読んでいただいている皆さんに感謝いたします。
(これ、ミーシャ。アンタの書いている文章は「知的」なのか『痴的』なのかようわからんのやけどさぁ~)
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