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ブドウの城

 さて今週末の検定試験の絡みで、最近あれこれと「多忙な」私。今日は水曜日、巨大建造物のお話。3枠目の今週は「お城」、今日は今月のテーマ、ラグビーからちょっと無理やり感はありますが、こんなところを語ってみましょ。
(これ、アンタは「多忙」やなくて「脂肪」の方やろ、あっ、「死亡」やったかな、ミーシャ?)

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 ラグビーの名門、ここら辺では常翔啓光学園(大阪府枚方市)、その昔であれば伏見工業(京都)などがありますが、山梨県に「日川」という公立の学校があります。卒業生にはなんと「科学で説明できない強さ」ジャンボ鶴田などがいますが、この山梨県から今日は「新府城」というお城についてお話したいと思います。

 山梨県韮崎市にある「新府城」は、武田勝頼が1581年(天正9年)頃から築城をはじめ、同年12月に躑躅ヶ崎館(史跡武田氏館跡・山梨県甲府市)から移り住んだ城です。父の武田信玄は「人は石垣、人は濠、情けは味方、仇は敵なり」ということで、本城の甲府、躑躅ヶ崎館にはあまり城郭としての機能を持たせていなかったのですが、信玄の死後、武田家を巡る情勢の悪化に伴い築城されました。翌1582年の3月には、織田氏・徳川氏が包囲網を狭める中で、勝頼は岩殿城(山梨県大月市)を目指し、新府城に火をかけ廃城になったと伝わっています。武田氏滅亡後は、徳川氏が天正壬午の乱で陣城として利用したと記録されています。勝頼の在城はわずか3か月足らずでしたが、近年、周辺で新府城と同時期の屋敷跡の遺跡(隠岐殿遺跡)が発掘され、新たな府中の地としての初めの頃の様子が本城を含め周辺に埋もれていると思われます。1973年(昭和48年)、周辺は史跡に指定されました。

 なお、武田氏の滅亡により甲斐は徳川氏が領し、徳川氏は元々あった甲府の躑躅ヶ崎館を本拠としました。1590年(天正18年)の小田原合戦により後北条氏が滅亡すると、豊臣政権に臣従していた家康は関東へ移封されます。その後、関ヶ原の戦いを経て甲斐は再び徳川氏が領し、近世を通じて甲府城は甲斐の政治的中心地となり、新府城は廃城となります。 江戸時代になると甲府がメインの地となり、この辺りは何にもない地になります。江戸時代には甲府藩が設置され、徳川一門が領主になったのですが、1704年(宝永元年)には甲府藩主・徳川綱豊(家宣)(以前に出てきた「御両典」ですよ、どこに書いてあったかはよ~く探しときましょう。)が将軍・綱吉の後継者になると、綱吉の側用人であった柳沢吉保がその後任として甲斐・駿河領国に15万石余りの所領と甲府城を与えられます。1724年(享保9年)、吉保の子、吉里が大和郡山(奈良県)に国替えになった後は、この地は再び幕府直轄領化され甲府町方は甲府勤番(宰領の勤番支配は着任後数年で小姓番頭とか長崎奉行とかに栄転するのですが、その下の勤番士は転任の道が閉ざされ終生を甲州勤務で過ごすということになっていました。そのため人選に困り、結局は過去において何らかの罪状、悪事、不届きの行跡を残した旗本達を一種の追放懲罰で甲州送りにすることになったようなのです。「甲府勤番山流し」などと言われたゆえんです。よく時代劇なんかでも出てきますな。)よる支配、在方は三分代官支配となり、幕末に至りました。

 ということで今日のお話はここまで。あまり意識しても逆効果になるわけで、その辺は自然体で過ごしましょ。
(せやね~、というても頑張らんといかんよ、ミーシャ。)
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