夫婦共々

 さて台風一過の後、泥沼の中でもお仕事は何とか終わり、今日も真面目にこのお話をを書いている私。今日は火曜日、映画のお話。2枠目の今週は「ミーシャのマニアック映画劇場」、明日、8月9日が長崎への原爆投下日、そして今日から始まった高校野球、波佐見(長崎)がサヨナラ負けしたことから、こんな作品のお話です。
(これ、ま~た無理やりひっかけてからに、ミーシャ。)

 2度目という事で、どうしても最初の広島への原爆投下よりもイメージが薄い「長崎への原爆投下」ですが、今月はそこから「この子を残して」(1983年(昭和58年) 松竹)という作品があります。元々は永井隆の随筆だったのですが、それを映画化。永井は、旧制長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)で放射線医学担当の助教授・医局員となり、第二次世界大戦が始まる前から放射線に被曝し、1945年6月には白血病と診断されていました。さらに、1945年8月9日11時2分、原爆によって被爆し、妻を亡くす。この著書は、自分の子供を残して死んでゆく悔しさと、自分の専門にかかわる病気と戦争で死ぬ悔しさを訴えたものです。監督は木下恵介、反戦映画として、主演の加藤剛(永井役)、および淡島千景(永井の義母・ツモ役)に、戦争を非難する数多くの言葉を語らせています。

 あらすじはこんなものです。
昭和20年8月7日、長崎医大放射線科の医師、永井隆は日増しに激しさを増す空襲に、10歳の息子・誠一と5歳の娘・茅乃を、妻の緑の母・ツモの居る木場に疎開させた。その夜、緑は診察のため長い放射線をあび、自ら命を縮めようとしている隆に休息するよう懇願するが、彼は患者が増えているからと聞き入れない。8月9日、午前11時2分。川で泳いでいた誠一は、浦上の方で空がピカッと光るのを見た。そして突風が津波のように押しよせてきた。街の方で何かあったのかもしれないと様子を見に出かけたツモは、日が暮れてから漸く緑の骨を缶に拾って戻って来た。次の日、ツモが誠一を連れて焼跡を訪れると小さな十字架が立てられていた。ツモは隆がここに来たと言う。隆はその頃、被爆者の救護活動をしていた。ツモと骨を拾っていた誠一は焼け焦げた縁のクルスを拾う。8月15日、日本は無条件降伏し戦争は終った。隆は放射線医として原爆の記録を綴っていたが、子供たち二人のために、たった一人の母の思い出と、人間としての尊厳を守る強い愛を残そうと自分の体験を執筆し始めた。新学期から誠一が大村の学校に変わることになった頃、緑の妹・昌子が尋ねて来た。彼女は修道院へ入ると言う。そして、昌子は原爆の落ちた日、生徒たちを置き去りにして防空壕へ逃げ、ついて来た一人の生徒が仲間を助けようとし眼の前で死んだこと、自分は何もせず怖くて茫然としていたことを告げる。隆は執筆のために建てた如己堂で何冊も脱稿するが、進駐軍の検閲が厳しく一冊も本にできなかった。そして、3年後の4月1日、「長崎の鐘」が発売された。1951年、隆は43歳で亡くなり、翌年、ツモが後を追った。誠一は成人し、今は世界の戦地を回る通信記者になっていたが、父の教えを立派に守っていた。

 なお、長崎が原爆投下地に選ばれた理由は諸説ありますが、あくまでも予備目標だったというのはどの説も語っています。なぜなら、長崎は細長くて2つの山(風頭山と稲佐山、稲佐山はライブ会場などでよく使われます。)の間にあり、爆弾の効果が十分に発揮されないうえ、これまで原爆投下以前に5回の空襲を経験し、すでに多大な被害を被っていたので、実際は『原爆投下には不適』という意見も出ていました。ただ、戦艦「大和」と同型の「武蔵」を造った三菱造船所(現 三菱重工業 長崎造船所)があったこと、ハワイの真珠湾攻撃時に使用された「魚雷」を造った三菱兵器製作所があったことなどから、最終的には原爆投下の候補として残った、と言われています。

 という事で今日のお話はここまで。これからちょっとプールに行って、冷却してきます。
(これ、あんまし冷やしすぎてもいかんのよ、ミーシャ。)
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