チャレンジャーからの復活

 さて私を巡るお話が急転直下、今後、ひょっとしたら別の方向をという線も浮上する中で、かなり悩みの深い私。今日は木曜日、そんな折れそうな心を支えるべく、テニスのお話。4枠目の今週は「名勝負百選」、今月はこんなお話です。
(これ、どんなことがあっても自分を見失ったらいかんよ、ミーシャ。)

 1999年6月6日、フレンチ・オープンの男子シングルス決勝、結果はこうでした。

 アンドレ・アガシ   1-6   アンドレイ・メドヴェデフ
              2-6
              6-4
              6-3
              6-4

 第13シード、アガシはここまでの6試合で4セット、2回戦ではフルセットの試合をやっています。しかし4回戦で第4シードのモヤを破って以降はシード選手と当たらずという部分もあって、1991年以来の決勝まで勝ち上がってきました。一方ノーシード、当時世界ランキング100位のメドヴェデフも2回戦で第2シードのサンプラスを破って以降は4回戦以降の3試合はクレー巧者と呼ばれる連中を倒して、史上最も低いランキングで決勝まで上がってきました。

 そして試合はそのメドヴェデフのサーブが好調で、第1,2セットをあっさりと取ります。この時点で観客のほとんどはメドベデフのストレート勝ち(さらに、仮に勝った場合は史上最も低いランキングからの優勝というおまけまでつくはずでした。)を予想していました。しかし第3セットに入ると、徐々にアガシ本来のプレーが戻ってきました。また1度、チャレンジャー・ツアーを回っていたというどん底を味わった彼はひたすらボールを追い、拾うテニスを繰り広げ、いつの間にかアガシは、思い通りのテニスをしていました。そうなれば流れは一気にアガシに傾きました。それでもメドベデフは、最後まで自分のレベルを崩さなかったし、集中力は持続していました。それは最初メドベデフに微笑んでいた神が、第3セットからアガシの方を向いた、そんなことを考えてしまうほどの、感動的なゲームでした。第5セット、5-4で迎えた第10ゲーム。40-15のマッチポイント。メドベデフのフォアのレシーブが、ベースラインを割ったその瞬間、アガシの男子としては30年ぶりのキャリア・グランドスラム達成の瞬間でした。

 ということで今日のお話はここまで。私もここから先は未知数の部分が多々あるため、ちょっと不安の多い次第です。
(これ、あんまし自分を責めたらいかんよ、ミーシャ。)
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傾向と対策(4)

 さてそろそろ今週末の名古屋行の段取りをする中で、ホワイトデーのお返しを考えている私。中身はごくフツーのものですが、包装紙はちょっと凝ったものにしてみました。ということで今日は木曜日、テニスのお話。3枠目の今週は「戦術」、コート別のお話も今回が最終回、今日はこんなお話です。
(これ、アンタもそういう方面だけは凝り性なんやから、しまいに肩こりにならんようにしときや、ミーシャ。)

 世界のプロ・ツアーで最も多い大会はハード・コートの大会です。この時期、プロ・ツアーはアメリカでのハード・コートでの大会がメインになってきます。インディアンウェルズ、キー・ビスケイン(マイアミ)など、それなりの規模の大会も数多くあります。この後、ヨーロッパでのクレー、芝生シーズンを過ぎるとまた夏場から初秋にかけてはまたハード・コートの大会が続きます。今回はこのハード・コートについて語ってみたいと思います。

 いわずと知れたハード・コートとはアスファルトの上にコートの上塗り(決して、「恥の上塗り」ではありません。)を重ねたコートです。この上塗りの中身次第でボールのバウンド、速さなどはいかようにも変えられます。クレー(土)とグラス(芝)の中間に位置するコートであり、ストローカーにもネットプレイヤーにも有効なコートとされます。ただし、バウンドはどのコートよりも高く、表面が硬いため足への負担が大きいなどハード特有の効果があるのも事実です。しかし、ほぼ全選手に平等なコートという評価は一致しており、現在ではハードを制するものがテニスを制すると言っても言い過ぎではありません。クセがない上に最も多いコートなので、慣れの関係もありハードが一番得意という選手は多いんです。クレーもグラスも苦手だがハードだけは得意という選手さえいるほどです。(代表例はロディック、トッド・マーティンなどアメリカ人の選手に多い例です。)多くのクレー巧者が芝コートで勝てないのは特に問題視されないのですが、ハードコートでも勝てないのであれば実力に劣ると解釈されてしまうこともしばしばです。

 しかし、平均的なコートとはいえ、その高く弾むバウンドはハード固有の戦い方も生み出します。フォアに回り込んでの強打や上から叩きつけるショットなど攻撃的なショットの多用が可能になり、またバウンド後に大きく変化する特性を活かして、回転をかけたサーブなども有効となります。(特にスピン・サーブ(縦回転)はバウンド後にえげつなく跳ね上がります。)また上から叩くことで体重も乗る分、バウンド後にボールが伸びるということから、それに追いつく強靭な脚力が必要とされます。(この辺はダベンポート、ウィリアムズ姉妹、カプリアティなどのアメリカ人選手をイメージしてください。)

 ということで今日のお話はここまで。WBCも決勝ラウンドに進みます。その前に名古屋に行って、みんなでバカ騒ぎしてきましょということで、今週はちょっと詰めて書きますんで、読んでやってくださいまし。
(これ、浮かれてばっかりではいかんよ、ミーシャ。)

夫婦そろって

 さて最近、例の問題になっている学校法人の出来事、この学校はウチとこから自転車で10分ほどのところにあるんですが、「もしも、認可が下りなければ、どうなるんでしょ?」と思う「下世話な」私。今日は木曜日、テニスのお話。2枠目の今週は「選手」。今月は最近持ち上がった「トランプの入国拒否」からこんなお話です。
(これ、アンタも最近、どないやの、ミーシャ。パパもママも「どないかな?」っていうとってやったよ、ミーシャ。)

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 今月はこの方、1990年代のアメリカ四天王の1人、アンドレ・アガシ(Andre Kirk Agassi )です。1970年4月29日、アメリカ、ネバダ州ラスベガス生まれの右利き、バックハンド両手打ちのこの方、父親はイランからの移民者で、アルメニア系の元ボクシング選手であり、4人兄弟の末っ子として生まれ、4歳からテニスを始めた。13歳の時、彼はフロリダ州ボカラトンにあるニック・ボロテリー・テニスアカデミーに入学した。1986年に16歳の若さでプロ転向。1988年にはツアーでも年間6大会に優勝して、18歳で世界ランク3位に躍進しました。そして1992年には「意外にも」芝生のウィンブルドンで4大メジャー初優勝、1990年代中盤に1度目の絶頂期を迎えます。

 しかし、極度の低迷に陥り、1997年末は一時世界ランキングを141位まで落としたこともあります。(この当時はチャレンジャー・ツアーと呼ばれる比較的小さい大会をコツコツと回っていました。)しかし、当時のコーチであったブラッド・ギルバートの指導により、徐々に復調を果たします。1999年全仏オープン決勝で、アガシはアンドレイ・メドベデフに2セット先取されてからの大逆転で破り、1969年のロッド・レーバー以来30年ぶり史上5人目のキャリア(生涯)・グランドスラムを達成しました。(この後、フェデラー、ナダル、ジョコビッチも達成しています。)この偉業で再び波に乗ったアガシは、同年の全米オープンで5年ぶり2度目の優勝を遂げ、2000年全豪オープン・2001年全豪オープンで大会2連覇を果たし、2度目の絶頂期を迎えました。しかし、2000年代も中盤に入ると、アガシのテンポの速いテニスを上回るテニスをする選手が出てくるようになり、アガシは徐々にツアーで勝てなくなっていきました。2006年、USオープンを最後に現役を引退すると表明、2011年には国際テニス殿堂入りを果たしています。

 プレースタイル的にはライジングショット、リターンを得意とした1990年代から2000年代前半有数のグラウンドストローカーです。その相性から、1990年代~2000年代前半のビッグサーバー達(シュティヒ、ロディック等)をカモにしていたのですが、クーリエ、チャン等グランドストローカー同士には苦戦することもありました。この当時はサンプラス、イヴァニセヴィッチといったビッグ・サーバー有利と言われていた時代であり、それを打ち破るためには速い球であろうが食い込まれようが、どんな球でも叩けるスタイルが要求されました。そのため、よりコンパクトで全身を使うスイングがそれを可能にしました。ただ、ボールをより近くで的確に捉える必要があるので、ある程度コースを予測してのギャンブル的なリターンになってしまいます。つまり、リターンエースは多いが、逆にサービスエースを食らう数もアガシのほうが多いということになります。またその強打だけが注目されがちですが、意外にも決してラケットを振り回しただけではなく、球を拾うよりも、組み立てと速いテンポで相手を追い詰めるスタイルだったといえます。また、特徴である全身を使ったショットは、打ち終わりにタイムロスが発生したため、実際よりもストローク戦における俊敏なイメージが少なくなった部分があります。ただ、ストローカーとして不足のないフットワークは持っているものの、俊足の選手ではなかっんです。とはいえ、驚くべき所は同年代の選手達の中でも2000年になってもまだ強かった数少ない選手です。ボールの威力は晩年のほうが強く、サーブの時速200km超もしばしばでした。プレースタイルは21世紀になっても古くならなかったのが脅威といえます。

 またバツイチの後、2001年には、かつての女王、シュテフィ・グラフと結婚、この結婚は2人の間に「相互扶助」を生むことになります。何のことかというと、2005年、アガシは当時、契約していたナイキから契約の解除を通告されます。(この理由がフェデラー、ナダル、セレナ・ウィリアムズ、シャラポワの4人に経営リソースを集中させるためと言われています。同時期に切られた選手の中にはレイトン・ヒューイットがいます。)ここで一肌脱いだ(間違っても、ホントに脱いだわけではありません。)のは奥様のグラフ、そのコネを使って、なんとなんと、アディダスに話を通して3本戦の靴と服を着せるという芸当をやってのけます。これには私も腰を抜かしました。(また、この後、逆にグラフがウィルソンともめた際に、自分が使うヘッド社に話を持ち込んだのはアガシだといわれています。)

 ということで今日のお話はここまで。とりあえず、今日も何とか書いたわけですが、「♪」をどうするかを悩む次第です。
(ほれ、あんまし無理せんようにね、ミーシャ。)
 

太もも短し、膝まで長し

 さて先ほどまで、ちょっとこっそりとお食事、モクモクと皿を積み上げていた「賽の河原の」私。今日は火曜日、順番変わってのテニスのお話。1枠目の今週は「名品」、今日はこんなお話です。
(これ、モクモクって焼肉でも食べてたの、ミーシャ?)


 今月はこちら。まずはこの写真を見てください。

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画像は1980年代の「雷帝」、イワン・レンドルです。下のパンツ(決してここで「水玉」も「いちご」もついてません。また何をトチ狂っても、言葉巧みにだまくらかして脱がせてはいけません。)の丈は太ももがほぼ見えています。

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とはいえ、1990年代以降、サッカーやバスケットボールの影響からか、丈はちょっと長くなりました。現在のものはこちら。画像はエフゲニー・カフェルニコフ、下のパンツはほぼ膝のすぐ上まで来ています。

 これはハーフパンツの人気があがったため、また下着をブリーフからボクサーブリーフやトランクスにかえる男子が増加し、短い丈の半ズボンだと下着がはみ出すという理由から短い半ズボンが避けられるようになったからです。また日本では小学校の制服(比較的西日本に多いといわれています。ちなみにミーシャは今の地に住むようになった際に、母親が一番気にしたのは「服が決まっているか、いないか?」でした。)の半ズボンも、裾が太腿の半ばもしくは膝丈の半ズボンが主流になりました。バスケットボールの影響が大きいといわれています。マイケル・ジョーダンが大きめのショーツ(バギー・ショーツ)を穿いて試合に出るようになったのですが、これはユニフォームの下にノースカロライナ大の練習用ショーツを履く為です。そのため、当時のNBAは短い丈のものが主流だったものが一気にこのパターンになりました。(ちなみにミーシャが毎年9月から12月にテニスで「黒い靴」を履くのはこのジョーダンにあやかったからです。)

 ということで今日のお話はここまで。さて明日からは3月ですが、さて、私を巡る部分はどうなりますかというところで、来月も頑張りましょという次第です。
(ほれ、最後はピシッと締めとかんといかんよ、ミーシャ。)

女神の姉

 さて明日は「フェラーリのF1 新車の発表」ということで「さて、どんなもんが出てくるんでしょ?」と思う中、今日も真面目にお仕事して、結果の残っていない私。今日は木曜日、テニスのお話。4枠目の今週は「名勝負百選」、今日はこんなお話です。
(これ、あんまし引きずったらいかんよ、ミーシャ。)

 先日のオーストラリアの決勝、36歳のヴィーナス・ウィリアムズと35歳のセリーナ・ウィリアムズの姉妹対決でしたが、この年齢でまだそれが起こるというのはちょっとビックリ、ここまで28回の対戦のうち、妹セリーナの17勝、姉のヴィーナスの11勝という成績ですが、4大メジャーでは15度対戦しています。それでもセリーナの10勝、ヴィーナスの5勝という成績です。そんな2人が初めて4大メジャーの決勝をやったのは2000年のウィンブルドンですが、そのヴィーナス・ウィリアムズからこんな試合がありました。2005年のウィンブルドンの女子シングルス決勝、結果はこちら。

 ヴィーナス・ウィリアムズ     4-6   リンゼイ・ダベンポート
                  (4)7-6(7)
                     9-7
 
 第1シード、ダベンポートはここまでの6試合で、4回戦のクライシュテルス、準決勝のモーレスモ戦でタイブレークの末に1セットずつ落としています。しかし世界ランク1位の貫禄でここまで勝ち上がってきました。一方の故障明けのヴィーナス・ウィリアムズは第14シード、ここまで失セットなしで6試合を勝ち上がってきましたが、4回戦で当たるであろうと予想された妹セリーナがコケ、ベスト8ではマリー・ピエルス相手にタイブレーク12-10の壮絶なシバキ合いの果てにピエルスをコートに沈めて、準決勝はシャラポワとの「絶叫対決」を制してここまでやってきました。

 過去26試合やって、ヴィーナスの14勝12敗のほぼ5分の2人、その27度目、そして最後の対戦となった女子シングルス決勝は、前日雨で流れた男子シングルス準決勝のために1時間ほど繰り下げられました。そうして始まった女子決勝の第1セットは、ダベンポートがヴィーナスのサービスゲームを2ゲームブレークし、5-2とリードするという展開。そこから2ゲームを奪い、4ゲームまで追い上げたヴィーナスでしたが、ダベンポートに6-4と逃れられます。第1セットは33分で終了、しかしその後に続く厳しく長い戦いはまだ誰も予想していませんでした。

 第2セットも終盤、5-4でヴィーナスリードの場面では、ダベンポートのサービスゲームでブレークポイントを握りながら、そのチャンスをつかむことができませんでした。しかし、6-5でサービング・フォア・ザ・チャンピオンシップスを迎えたダベンポートは、今度はそのゲーム1ポイントを取っただけでヴィーナスにブレークを許してしまいます。こうなると追いついた方が有利になるのはよくある例で、タイブレークに入ると、ヴィーナスが一方的な展開で5-1とリードし、7-4でヴィーナスが第2セットを奪い返し、2年ぶりの最終セットに突入しました。

 最終、第3セットもダベンポートのリードで試合は進みます。4-2とダベンポートがリードを奪ったときには、センターコートの誰もがダベンポートの勝利を予想しました。しかし、その直後、ダベンポートは背中の痛みを訴え、治療を受けることになります。(「メディカル・タイムアウト」と言いますが、偶然に起こったケガの治療の場合、3分以内で試合を中断することができます。)痛みを抱えながら、それでも戦い抜くダベンポートは、5-4で一度はチャンピオンシップポイントまでこぎつけます。しかし、満身創痍のダベンポート、ヴィーナスの粘りに勝つことはできませんでした。第3セット、9-7でついにヴィーナスはウインブルドンの3度目のタイトルを手にしました。

 ということで今日のお話はここまで。ややもするとあれこれ悩みがちですが、その辺は割り切って取り組みましょうという次第です。
(ほれ、ちゃ~んとやっとったら、みんなが見とるよ、ミーシャ。)
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